屛風の中に南蛮文化ぎっしり
16世紀半ば、戦国大名が天下を争う動乱の時代に、日本に異国の船がやってきました。当時のヨーロッパは「大航海時代」のまっただなか。その覇権を握ったポルトガルやスペインの交易船「南蛮船」です。
彫りの深い顔立ちの人々、見たこともない舶来品に、日本人はびっくり。南蛮ブームが巻き起こりました。
画壇の一大流派・狩野派はこの流行をとらえ、南蛮人や南蛮船を描いた「南蛮屛風」を数多く制作しました。16世紀になるとキリスト教が禁じられ、江戸時代には鎖国になったので、ブームは短期間のこと。にもかかわらず、鎖国後の作品も含めて90点以上もの「南蛮屛風」が今に伝わっています。これは、屛風の画題としては「洛中洛外図屛風」に次ぐ多さ。いかに熱いブームだったか想像できますね!南蛮船は、海の向こうから宝物をもたらす「宝船」のイメージと重ねられ、鎖国以降も海運業者などに縁起物として好まれました。
屛風は普通、右から左へ場面が進みます。絵巻と同じですね。さっそく右端から見ていきましょう!
「南蛮船が来たぞ!」犬を連れたこどもや、赤ちゃんをおんぶするお母さんが港に集まってきました。黒い修道服の一団は、キリスト教を広めるために日本に住んでいたイエズス会の宣教師たち。彼らは南蛮貿易にも関わっており、南蛮船の商人たちを出迎えにきました。大きくふくらんだズボンの男性が、南蛮船の船長(カピタン)です。
手前では小舟を使って船の積み荷を降ろしていますね。階段の上にごろりと転がるのは……なんと豚足の生ハムです!
帆を片付ける労働者の中に、ロープからぶら下がっている人がいます。「日本についた!」とはしゃいでいるのでしょうか。
それでは左隻に進みましょう。未知の世界が待っています!――じつはここ、日本人の絵師が想像で描いた南蛮船のふるさとなんです。右端の門をくぐるのはフランシスコ会の宣教師たち。その先のテラスで、南蛮人たちが優雅に会議中です。
カラフルな屋根や女性たちのファッションは、ヨーロッパというより、どこか中国風ですね。当時来日したのは男性ばかり。そのため、絵師は見たこともない外国の女性や建物を描くため、中国を描くときの伝統を応用したのです。
日本では珍しかった動物も登場します。洋犬、それに孔雀も!画面手前では、これまた珍しかった、アラビア馬という種類の馬を調教しています。馬に乗る南蛮人のマントは、ラシャかビロード。南蛮文化に憧れた戦国大名たちは、こうした生地をさっそく手に入れ、陣羽織に仕立てさせたそうです。
ファッション、建物の様式、動物たち・・・左隻には伝統的な異国表現が総動員されているんですね。ここはいわば、絵師が生み出した「幻想の異国」なのです!
師、永徳から受け継いだ「豪壮」!
そして山楽ならではの「華麗」!
絵師のサインはありませんが、この作品は、狩野山楽(さんらく)かその周辺人物の作といわれます。六曲一双の大画面に様々なモチーフをおさめる見事な腕前。海の青は群青(ラピスラズリ)、木の緑は緑青(ろくしょう)、そして金箔と、高価な画材を惜しみなく使っています。
山楽の師匠は、狩野永徳(えいとく)。桃山時代を代表する「豪壮(ごうそう)」な障壁画で、信長、秀吉ら天下人の城を飾りました。その代名詞は、モチーフを絵の中から飛び出さんばかりに大きく描く「大画方式(たいがほうしき)」、そして余白を金箔でうめつくす「金碧画(きんぺきが)」。山楽は、その師匠の画風を受け継ぐとともに、より「華麗(かれい)」な雰囲気を打ち出しました。この屛風のゆったりと折れ曲がる木や、垂直線を強調した岩は、山楽の画風を思わせます。
動乱の世を生き抜いた「京狩野派の祖」
動乱の世を生き抜いた山楽の経歴は、波乱万丈。父は浅井長政の家臣でしたが、山楽が15歳の時、信長によって浅井家が滅ぼされ、山楽は豊臣家に仕えることに。ある時、地面に描いた絵が秀吉の目に留まり、その推薦で永徳に弟子入りしたといいます。
当時、狩野派では、天下がどちらに転んでも一門が続くよう、朝廷、豊臣、徳川それぞれに、門下の絵師を布陣しました。山楽はもちろん「豊臣方」。そのため豊臣家滅亡後は身を追われることに。間もなく許されましたが、幕府のお膝元・江戸には行かず、京都で永徳の画風を次世代に伝えました。「京狩野派の祖」と呼ばれます。
次回は、サントリー美術館「水 神秘のかたち」展開幕直前!
本コラムでは展示作品の中から、水の神様にゆかりの深い神社やお寺を描いた屛風をご紹介します。「水にまつわる信仰」というフレッシュな切り口での屛風鑑賞をお楽しみに!