ショパンは、祖国を奪われた怒りや悲しみをピアノで表現することで、解放への願いを訴え続けたのでしょうか。
出国のわずか20日後、ワルシャワでロシアの統治に対する武装蜂起が勃発(11月蜂起)。結局革命は失敗に終わり、故郷は再びロシアの手に落ちたことを異国で知ります。この悲報で、ショパンは激しい錯乱状態に陥りました。神を呪い、帰るべき場所を奪ったロシアを憎み、闘いを放棄した自責の念に苦しむ日々が、当時の彼の日記に綴られています。
やがてそんな絶望を鍵盤に叩きつけることで、ショパンは祖国解放の願いを形にしていきます。その頃作られた「革命のエチュード」からは、ショパンの慟哭(どうこく)が音の粒となりピアノからあふれ出てくるようです。晩年まで、ショパンは武器の代わりにピアノで祖国のために闘い続けました。
冒頭で触れた「別れの曲」を弟子が演奏していたところ、ショパンは突然、苦悩に満ちた表情で「おお、わが祖国!」と叫んだ、と伝えられています。ショパンにとっては、二度と戻れない祖国への想いを表現した曲だったのでしょう。39歳で逝ったショパンの遺体はパリに埋葬されましたが、心臓だけは、遺言によりワルシャワに運ばれ、祖国の地で安らかに眠っています。