18歳でデビューしたヨハン・シュトラウス2世は、後に「ワルツ王」と呼ばれるまでになった。
ウィーン中に巻き起こったワルツブーム。その機運をいち早くつかみ、放浪の楽士から宮廷舞踏会の音楽監督にまで上り詰めたのが、ヨハン・シュトラウス1世(1804~1849年)でした。
流しのバイオリン弾きをしていたところを、当時ワルツをはじめダンス音楽の作曲などで名を馳せていたヨーゼフ・ランナーに認められ、彼の下で才能を発揮。音楽に加え、巧みな弓さばきで人々を魅了したシュトラウス1世(以下、父ヨハン)は、やがてランナーと対立、二人は競ってワルツ曲を作りました。この「ワルツ合戦」が後に高度で美しいワルツを生む土壌を作ったのですが、この土壌でワルツを大きく進化させたのが、息子のヨハン・シュトラウス2世(1825~1899年。以下、息子ヨハン)でした。
父ヨハンは、息子ヨハンが音楽家になることには反対でした。しかし母親(父ヨハンの妻)の援護のもと、息子ヨハンは教会のオルガン奏者に師事し、正統派の音楽や楽典の基礎などを徹底的に習得。息子には浮き草家業だった音楽家の苦労を背負わせたくなかったのか、あるいは若きライバルの出現を苦々しく思ったのか、父ヨハンはあらゆる手段で息子のデビューを妨害します。今度は親子間でし烈な作曲競争が繰り広げられ、皮肉にもこうした覇権争いでワルツは一層の発展を遂げたのでした。